3分でわかる!醍醐天皇と延喜の荘園整理令の史料『類聚三代格』

平安時代

醍醐天皇の親政

宇多うだ天皇は息子の醍醐だいご天皇に皇位を譲ります。このとき藤原時平ふじわらのときひらは藤原基経の跡を継ぎ、左大臣になります。一方、宇多天皇の親政で活躍した菅原道真すがわらのみちざね右大臣に就任します。

ポイント
  • 左大臣→藤原時平ふじわらのときひら
  • 右大臣→菅原道真すがわらのみちざね

醍醐だいご天皇も親政を行い、摂政・関白は置かなかったのです。これを延喜えんぎといいます。

菅原道真の失脚

しかし藤原時平の策略で、菅原道真は太宰府だざいふ左遷させんされてしまいます。

この901年の事件を昌泰しょうたいへんといいます。左遷された菅原道真はまもなく太宰府で死んでしまいます。

また同じ901年に最後の六国史である『日本三代実録にほんさんだいじつろく』が編纂されています。

延喜の荘園整理令

902年に最後の班田が行われます。これが延喜えんぎ荘園しょうえん整理令せいりれいです。

復習

班田収授法とは公地公民の原則に基づいて、戸籍に登録した農民に田地を貸し与え、課税し、死後、国に返還させる制度でしたね。

延喜の荘園整理令が必要な理由

班田収授の崩壊

農民が田地を捨てて逃げる浮浪ふろう逃亡とうぼうや偽りの戸籍をつくり税を逃れる偽籍ぎせきが横行すると、税がちゃんと集まらなくなります。

こうして財政難に陥った政府は、有力農民を直接に指定して、直営式の土地経営を行い、そこからの税収で財源を補ったわけです。こうした田を直営田ちょくえいでんといいます。

直営田の増加

直営田ちょくえいでんの先駆けになったのは823年に太宰府で導入された公営田くえいでんです。公営田くえいでんは一般農民に耕作させ、官費で経営を行い、収穫物は官有とする仕組みでした。

この公営田くえいでんの取り組みがある程度うまくいったので、中央もこれをマネします。

具体的には、政府所有の田地を官田かんでん、中央省庁が所有する田地を諸司田しょしでん、天皇所有の田地を勅旨田ちょくしでん、皇族所有の田地を賜田しでんといいます。

延喜えんぎ荘園しょうえん整理令せいりれいでは、こうした律令制度に反する私的な土地所有を禁止することで、律令制度の立て直しをはかったのです。

延喜の荘園整理令の史料

延喜の荘園整理令については『類聚るいじゅう三代格さんだいきゃく』に詳しい記述があるので史料を確認していきましょう。

 まさ勅旨ちょくし開田かいでんならびに諸院しょいん諸宮しょぐうおよ五位ごい以上いじょう百姓ひゃくせい田地でんち舎宅しゃたく閑地かんち荒田こうでん占請せんせいするを停止ていしすべきこと
 みぎ案内あないけみするに、頃年このごろ勅旨ちょくし開田かいでんあまね諸国しょこくり。空閑荒廃くうかんこうはいむるといえども、黎元れいげん産業さんぎょう便びんうばふなり。

現代語訳勅旨田ちょくしでんと皇族や貴族が農民の土地・住居を買い取って、閑地かんち荒田こうでんを占拠することをやめさせることについて。最近の事情を調べてみると、勅旨田が全国のいたる所にある。これはたとえ空いた土地だとしても、農民たちの経済活動の弊害になっている。出典:『類聚三代格るいじゅうさんだいきゃく

勅旨ちょくし開田かいでん」とは天皇の命令で田地を開くことです。天皇所有の田地を勅旨田ちょくしでんといいましたね。また「諸院しょいん諸宮しょぐうおよ五位ごい以上いじょう」とは皇族や貴族のことです。

当時、農民は厳しい税負担を逃れるために、皇族や貴族に田地を売り払っていました。

これをそのままにしておくと律令制度が崩壊してしまうので、勅旨田ちょくしでんや皇族や貴族が土地を買い占めることを禁止しました。

つまり、有力者が私有地をどんどん拡大することを禁止したわけです。

この902年という年は、最後に班田を実施した年であり、最初に私的な大土地所有(荘園)を制限した年でもあります

しかし、班田収授の崩壊は止まらず、醍醐天皇の時代を最後に班田収授は行われなくなります

また醍醐天皇の治世には最後の格式である延喜格式えんぎきゃくしきが編纂されます。

復習
  • 格:律令を時代に合わせて補足・訂正した法令
  • 式:律令の施行細則

しかしこうした努力も虚しく、醍醐天皇とその次の村上天皇の時代に、律令体制は完全に崩壊してしまいます。

次は藤原氏の他氏排斥の最後!

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