3分でわかる!藤原基経と阿衡の紛議を簡単にわかりやすく解説!

平安時代

藤原北家のさらなる権力拡大

藤原良房ふじわらのよしふさはわずか9歳の清和せいわ天皇を即位させ、摂政せっしょうとして権力を握ります。そして応天門の変で政敵の伴善男とものよしおを伊豆に流すことに成功し、藤原北家の権力をさらに拡大します。

復習

北家の祖は藤原房前ふささきです。

藤原基経の関白就任

次に良房の養子であった藤原基経ふじわらのもとつね陽成ようぜい天皇のときに摂政せっしょうとなります。

補足

このとき陽成天皇もわずか9歳でした。

しかし陽成天皇が成人すると、藤原基経ふじわらのもとつねはこれを退位させ、55歳の高齢であった光孝こうこう天皇を即位させます。

補足

当時、55歳の高齢で天皇に即位するというのは異例の事態でした。

この時点で藤原氏は天皇の人事を好きにできるほど強い権力を持っていたことがわかりますね。

そして光孝天皇は藤原基経に政治を完全に任せることにします。こうして藤原基経は事実上の関白かんぱくとなります。

補足

このときは事実上の関白であり、正式に関白という地位に就いたわけではありません。

関白かんぱくとは天皇が成人しているのにもかかわらず、天皇の政務を代行する役職です。一方、摂政とは幼少の天皇を補佐する役割でしたね。

阿衡の紛議

宇多天皇の即位

そして光孝天皇が病気になると、藤原基経の推薦もあって、宇多うだ天皇が即位します。この宇多うだ天皇のもとで、藤原基経は正式に関白に就任するわけです。

勅書に激怒

このとき基経は「藤原基経を関白にする」という宇多天皇の勅書ちょくしょに言いがかりをつけます。

勅書には「基経を阿衡あこうに任じる」とあったのですが、基経はこの「阿衡」の文字が気に入らないと言い出したのです。

というのも、藤原佐世ふじわらのすけよの解釈によれば中国では「阿衡」という役職は名ばかりで実権がない立場だったからです。

基経はこの「阿衡が気に入らない」という理由で半年も政務を放棄します。

基経の狙いは「阿衡」という言葉の発案者でり、宇多天皇の信任も厚い橘広相たちばなのひろみを失脚させることにあったと考えられています。

橘広相たちばなのひろみは橘氏のトップであり、宇多天皇の母方の親族(外戚がいせき)になる可能性もあり、それを恐れたからです。

外戚とは母方の親族のことです。藤原氏の基本戦略は天皇の外戚になるなど結婚や血縁関係を通じて権力を高めるものだったので、橘広相の台頭は恐ろしく感じられたことでしょう。

最初、基経は橘広相を流罪にし、勅書を訂正するよう求めますが、「さすがにそんな理由で橘広相を流罪にすれば逆に藤原氏の評判を落とす」という菅原道真すがわらのみちざねの意見を取り入れ、なんとか怒りを鎮めます。

これが887年の阿衡あこう紛議ふんぎと呼ばれる事件です。

語呂合わせ

半端な887い権力!阿衡の紛議!

こうして藤原氏はライバルの橘氏をおさえ、さらに関白としての地位を確固たるものにしてゆくのです。

ポイント

橘広相を失脚させるべく藤原基経は887年に阿衡の紛議という事件を起こした!

宇多天皇の親政

しかし、阿衡あこう紛議ふんぎから4年後の891年に藤原基経が死去すると、宇多天皇は摂政・関白を置かず、自ら政治を行うようになります。これを天皇親政てんのうしんせいといいます。

宇多天皇は学問で名高い菅原道真すがわらのみちざね蔵人頭くろうどのとうに任命し、藤原氏を政治の世界から遠ざけようとします。

その結果、宇多天皇は様々な改革を実施します。

遣唐使の廃止

894年には菅原道真の提案で遣唐使けんとうしを中止します。唐は平安時代に入ってから衰退の一途を辿っており、この頃には滅亡しかかっていたからです。もう新たに学ぶべきことはないので、危険を犯してまで唐に行く必要はないというわけです。

滝口の武士の設置

また、この頃から有力者の一部が武装した武士ぶしが見られるようになります。軍事力も低下傾向にあり、平安京の治安も乱れていたので、宮中の警備を目的とし、滝口たきぐち武士ぶしが設置されます。

菅原道真の失脚

宇多天皇の跡を継いだ醍醐だいご天皇の時代に入っても菅原道真はブレーンとして活躍します。しかし、901年になると、藤原時平ふじわらのときひらの陰謀により、菅原道真は太宰府に左遷させんされます。

権力の回復を企む藤原時平ふじわらのときひらに「皇位を奪おうとした」という濡れ衣を着せられたためです。これを昌泰しょうたいへんといいます。

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