承和の変を簡単に超わかりやすく解説!北家・藤原良房の権力独占

平安時代

藤原氏の台頭

大化の改新で藤原氏の祖である中臣鎌足なかとみのかまたりが大きな成果を挙げ、藤原不比等ふじわらのふひとが大宝律令・養老律令の編纂へんさんの中心的役割を果たした結果、藤原氏は律令制度における「官僚」として、国家運営の中心的な役割を果たします。

藤原北家の台頭

8世紀の末には藤原百川ふじわらのももかわ藤原種継ふじわらのたねつぐを出した式家しきけが有力となりますが、式家しきけ薬子くすこへん平城太上天皇へいぜいだいじょうてんのうへんで権力を失います。

一方、嵯峨さが天皇のもとで810年に藤原冬嗣ふじわらのふゆつぐ蔵人頭くろうどのとうに就任すると、藤原北家ほっけが台頭します。

北家の権力拡大

藤原良房の時代

藤原冬嗣ふじわらのふゆつぐの尽力により、北家ほっけは朝廷の重要職を独占しますが、さらに北家の権力を確固たるものにしたのが冬嗣の子である藤原良房ふじわらのよしふさです。

823年に嵯峨さが天皇は弟の淳和じゅんな天皇に譲位し、嵯峨上皇となりますが、譲位後も政治の実権を握り続けます。この嵯峨上皇のもとで、父・冬嗣の後をついで側近となったのが藤原良房ふじわらのよしふさです。

その後、嵯峨天皇の子の仁明にんみょう天皇が即位します。このとき藤原良房の妹は仁明天皇の中宮ちゅうぐうになっていました。中宮ちゅうぐうとは実質的な第一夫人です。

承和の変

藤原良房は、妹が道康みちやす親王を産むと、皇太子を排除して、道康親王を次の天皇にしたいと考えますが、これに反対したのが伴健岑とものこわみね橘逸勢たちばなのはやなりです。

藤原良房は、伴健岑とものこわみね橘逸勢たちばなのはやなり仁明にんみょう天皇に対して謀反むほんを企んでいるとの噂を流し、この2人を流罪るざいにすることに成功します。

これが842年の承和じょうわへんです。

語呂合わせ

デマを流してまで権力を握った良房はこれを恥に思ったに違いありません。そこで「恥に842思う承和の変」と覚えましょう!

この後、藤原良房の妹の子である道康親王は皇太子となり、850年には文徳もんとく天皇として即位します。こうして、藤原北家は外戚がいせきとしての地位を確立し、権力をより確かなものにしていくわけです。

※外戚とは母方の親族のこと

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