3分でわかる!徳政論争と律令制の再建!簡単にわかりやすく解説

平安時代

「造作・軍事」による国力の減衰

桓武かんむ天皇が力を注いだ2大事業を「造作ぞうさく軍事ぐんじ」と呼びます。造作ぞうさくとは「平安京の造営」で、軍事とは「蝦夷えみしとの戦争(蝦夷征討えみしせいとう」のことですよ。

【あわせて読みたい】

「造作・軍事」は大事業です。そのため莫大な費用がかかります。民衆への負担も非常に大きなものでした。

平安京の建設や蝦夷征討のためには当然、人手が必要ですよね?

そこで農民をひっぱりだしてきて、建設や戦争を手伝わせる。すると、農民たちは田地の耕作ができなくなりますから、税収が減るわけです。

その結果、国力が衰えることになります

徳政論争とは

そこで、桓武天皇の政策を根本から見直す必要性が生じるわけです。

これが805年の徳政論争とくせいろんそうです。

ちなみに「徳政」とは「民衆の生活をもっと良くするための政治」という意味ですよ。

さて、徳政論争とくせいろんそうとは、桓武天皇に意見を求められた藤原緒嗣ふじわらのおつぐ菅野真道すがののまみちの間で起きた論争です。

藤原緒嗣ふじわらのおつぐは「民衆の負担を軽くするために2大事業(造作・軍事)を中止すべき」と主張します。

一方、菅野真道すがののまみちは「完成まで2大事業を継続すべき」と主張します。

2大事業の中止を決意

結果、桓武天皇は藤原緒嗣の意見を素直に受け入れ、これまで心血を注いできた、平安京の造営と蝦夷征討を中止します

民衆を第一に考えた素晴らしい決断ですね。

ポイント

徳政論争とくせいろんそうでは藤原緒嗣ふじわらのおつぐの意見が採用され、桓武天皇は「造作ぞうさく・軍事」を中止します。造作とは平安京の造営で、軍事とは蝦夷征討えみしせいとうのことです。

律令制度の再建

徳政論争とセットで、律令制の再建もおさえておいてください。

桓武天皇の偉いところは、2大事業を打ち切る以外にも、農民の負担を減らす工夫をしたことです。

そもそも奈良時代は農民への負担が重すぎました。農民は自分が食べる分の食料すら満足に確保できなかった程、貧しかったわけです。

雑徭・公出挙の削減

そこで桓武天皇は、雑徭ぞうよう半分にし、公出挙くすいこの利率を5割から3割に減らします。

雑徭ぞうようとは国司のために年間60日間、土木工事なんかをやらされる労役でしたね。これが30日に半減した。

公出挙くすいことは国司が強制的に稲を貸し出し割の利息をとる制度でした。これも割まで減らされたわけです。

補足

農民の負担が減るわけではありませんが、事務手続きを簡単にするために、班田はんでん年に1回から12年に1回に改められます。班田収授法はんでんしゅうじゅほうとは元々は6年ごとに6歳以上の男女に口分田を貸し出して耕作させる制度でしたね。これが12年ごとになったわけです。

健児の制とは

さらに、桓武天皇は律令制度の極めて大きな負担であった軍団ぐんだんを廃止し、健児こんでいの制を設けます。

軍団ぐんだんとは農民から徴兵して組織した軍隊でしたね。

これに対し、健児こんでいとは主に郡司の子弟から徴兵した少数精鋭の軍隊です。また、有力農民が志願して健児になることもありました。

つまり桓武天皇は生活に困っていない層から徴兵することにしたわけです。

ちなみに、健児こんでいの制792年に出されました。つまり794年の平安京遷都より以前の制度ですよ。

勘解由使とは

これに加え、勘解由使かげゆしという役職を新たに設置し国司の不正を取り締まります。勘解由使かげゆしの詳細については以下の記事を是非、参考にしてみてくださいね!

勘解由使と検非違使の違いとは?

あわせて読みたい

コメント

タイトルとURLをコピーしました