桓武天皇の蝦夷征討を簡単に解説!坂上田村麻呂の活躍!

平安時代

桓武天皇の2大事業

桓武かんむ天皇(在位781~806)は2つの大きな事業を行います。

  • 事業①:長岡京や平安京といった都の建設
  • 事業②:蝦夷えみしの征服

この2大事業を「造作軍事」と呼びます。

歴史の流れを理解するには、蝦夷征討せいとう桓武天皇の2大事業の1つと考えることが大切ですよ。

後に桓武天皇は農民への負担を減らすため、この2大事業を中止するからです。

ちなみに、蝦夷とは東北地方に住む中央政府に従わない勢力のことです。人種的には中央の人たちと同じですよ。

蝦夷の反乱

そして光仁こうにん天皇のときの780年、蝦夷の反乱が起きます。その結果、宮城県に設置されていた多賀城たがじょうが蝦夷によって占拠されます。

反乱を起こした蝦夷は伊治呰麻呂これはりのあざまろです。伊治呰麻呂は、蝦夷でありながら反乱以前は中央政府に服属していたのですが、780年に中央を裏切り、多賀城たがじょうを占領。按察使あぜちらを殺害します。

蝦夷征討

これを受けて、桓武天皇は蝦夷との本格的な戦争を決意します。

まず789年に紀古佐美きのこさみに蝦夷征討を任せますが失敗。

そこで坂上田村麻呂さかのうえたむらまろ令外官りょうげのかんの1つである征夷大将軍せいいたいしょうぐんに任命します。

用語解説

令外官りょうげのかんとは律令で定められてない役職(官職)のことです。

坂上田村麻呂は802年に蝦夷のリーダーの阿弖流為あてるいを降伏に追い込み、岩手県北部までを朝廷の支配を拡大しました。

補足

802年には胆沢城いざわじょうを岩手県に設置し、鎮守府ちんじゅふを移して東北経営の拠点とします。鎮守府ちんじゅふとは蝦夷征討のための軍事を担当する役所ですよ。さらに翌803年には胆沢城いざわじょうの北方に志波城しわじょうを設置し前線基地とします。

しかし、朝廷が阿弖流為あてるいを死罪にすると、再び蝦夷は中央政府と対立します。

つまり蝦夷は引き続き、抵抗を続けたわけです。

用語解説

蝦夷征討を勉強する際は、あわせて柵戸さくこ俘囚ふしゅうをおさえておいてくださいね。柵戸さくことは関東から東北へ住民を移住させられて、開拓と防衛を担わされた農民のことです。また蝦夷征討の結果、朝廷に服属した蝦夷を俘囚ふしゅうといいます。

2大事業の中止

朝廷の中には、蝦夷征討せいとうが成功するまで、この事業を継続すべきとの意見もありましたが、あまりにも農民への負担が大きすぎたため、蝦夷征討は途中で打ち切られることになります

また、平安京の造営事業も農民や民衆への過酷な負担のため未完成のまま中止されます

それでもちゃんと平安京に移転したわけですから、未完成の都をそのまま使い続けたことになりますね。

ポイント

坂上田村麻呂さかのうえたむらまろは征夷大将軍として蝦夷征討えみしせいとうで活躍した!

3分でわかる!桓武天皇の徳政論争!

コメント

タイトルとURLをコピーしました