3分でわかる!桓武天皇が長岡京に遷都した理由!超わかりやすく解説

平安時代

寺院勢力の台頭

聖武しょうむ天皇の時代には、橘諸兄たちばなのもろえ政権のもとで、仏教で国を治めようという動きが強まりましたよね。これを鎮護国家ちんごこっか思想といいます。

さらに奈良時代の終わりごろには、称徳しょうとく天皇のときに、道鏡どうきょうが皇位を狙う事件が起きました。

769年の宇佐八幡宮神託事件うさはちまんぐうしんたくじけんですね。

語呂合わせ

南無76欲しい宇佐八幡神宮神託事件!

和気清麻呂わけのきよまろの必死の努力で道鏡どうきょうの野望は阻止されましたが、この事件は仏教勢力に律令体制を壊されてしまうかもしれないという危機意識を生み出しました

長岡京への遷都

そこで桓武かんむ天皇寺院勢力の強い奈良を去って人心を一新させるために、水陸ともに交通の便も良い山背国やましろのくに京都府)に都を移そうと考えます。

山背国やましろのくに(京都府)への遷都せんとを計画したもう1つの理由は奈良時代の間ずっと続いた政権争いから離れたかったことです。

奈良時代は藤原氏が権力を握っては失いの繰り返しで、政治上の争いが激しかったですよね。

【参考】奈良時代の完全まとめ!読むだけで面白いほどわかる!

つまり、政権運営の邪魔になる様々な勢力と距離をおきたかったわけですね。

これが784年の平城京へいじょうきょうから長岡京ながおかきょうへの遷都へとつながっていきます。

年号暗記

鳴くよ794ウグイス平安京」のちょうど10年前=784年!

長岡京での暗殺事件

しかし翌785年になると長岡京ながおかきょう遷都の責任者である藤原種継ふじわのたねつぐが暗殺されてしまいます。

平安京への遷都

藤原種継ふじわらのたねつぐが暗殺されると、この事件をめぐって桓武天皇の弟(早良さわら親王)は捕まった末に自害。さらには、桓武天皇の母親と皇后(第一位の妻)が相次いで死去します。

こうした不幸が立て続けに起こったせいで、桓武かんむ天皇は長岡京を不吉に思います。しかし、だからといって寺社勢力などの旧勢力の強い平城京に戻るわけにもいきません。

そこで和気清麻呂わけのきよまろの意見申し立てによって、同じ京都府内に平安京へいあんきょうを造営することとなり、794年には平安京へいあんきょうに遷都します。

このとき山背国やましろのくに(京都府)を山城国やましろのくにとし、国名を改めます。

また、平安京遷都後に桓武天皇は政治と結びつきの弱い仏教を導入すべく最澄さいちょうを唐に留学させます。このことは、平安京遷都後も寺院勢力が油断ならない存在であったことを物語っていますね。

実際、桓武天皇は平城京の大寺院が長岡京/平安京に移転することを認めず、最澄さいちょう空海くうかいが唐から持ち帰った新しい仏教の普及を支持します。

読むだけで面白いほどわかる奈良時代のまとめ記事です!

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