【保存版】飛鳥時代の総まとめ!簡単に超わかりやすく解説!

飛鳥時代
  1. 超わかる!飛鳥時代完全まとめ
    1. 飛鳥時代とは
    2. 継体天皇の時代のまとめ
      1. 継体天皇の即位
      2. 大伴金村の失脚
        1. 飛鳥時代の東アジア情勢
        2. 大伴金村による任那四県の割譲
        3. 賄賂疑惑
      3. 磐井の乱
        1. 任那復興のため大軍を派遣
        2. 筑紫国造磐井が反乱を起こした理由
        3. 磐井の鎮圧
    3. 欽明天皇の時代のまとめ
    4. 用明天皇の死後
    5. 崇峻天皇/推古天皇の時代のまとめ
      1. 崇峻天皇の暗殺
      2. 推古天皇の即位
      3. 厩戸王を摂政に任命
      4. 聖徳太子の政策
        1. 冠位十二階
        2. 憲法十七条
        3. 遣隋使
          1. 小野妹子の派遣
          2. 裴世清の帰国
    6. 舒明天皇の時代のまとめ
    7. 皇極天皇/孝徳天皇の時代のまとめ
      1. 蘇我入鹿の権力独占
      2. 唐の拡大
      3. 乙巳の変
      4. 新政府の発足
      5. 難波宮への遷都
      6. 改新の詔の発布
        1. 改新の詔の要約
        2. 公地公民制とは
        3. 班田収授とは
      7. 東北地方への進出
    8. ここまでのまとめ
    9. 斉明天皇の時代のまとめ
      1. 斉明天皇の重祚
      2. 蝦夷の平定
      3. 斉明天皇の時代の朝鮮半島情勢
      4. 百済の救援
    10. 中大兄皇子の称制のまとめ
      1. 称制とは
      2. 白村江の戦い
      3. 大津宮への遷都
    11. 天智天皇の時代のまとめ
      1. 国防政策の推進
      2. 近江令の制定
      3. 庚午年籍の作成
    12. 天武天皇/持統天皇の時代のまとめ
      1. 壬申の乱
      2. 皇親政治の推進
      3. 八色の姓とは
      4. 富本銭の発行
      5. 飛鳥浄御原令
      6. 藤原京の造営
      7. 飛鳥浄御原令の施行
      8. 庚寅年籍の作成
      9. 藤原京への遷都
    13. 文武天皇の時代のまとめ
  2. 飛鳥時代の頻出用語を暗記しよう!

超わかる!飛鳥時代完全まとめ

高校日本史Bの定期試験・大学入試に完全対応した飛鳥時代の超わかりやすい「まとめ」です。

歴史能力検定や教養としての日本史学習にも自信を持っておすすめできる内容になっているので、是非参考にしてみてください。

「読むだけ」で飛鳥時代が面白いほどわかりますよ!

飛鳥時代とは

飛鳥あすか時代とは592年の推古すいこ710年の平城京へいじょうきょう遷都せんとまでの期間のことです。

ただし、この「まとめ記事」では、6世紀初頭継体けいたいちょう710年平城京へいじょうきょう遷都せんとまでを扱います。

主に政治史史料問題をとりあげ、文化史は割愛かつあいします。

なお、難しい漢字は大きめのフォントで表記しています。

また、飛鳥時代の用語暗記もされたい方は、下記の一問一答集もあわせてご活用ください。

詳しい解答・解説で効率的に暗記できるようになっています。

【人気記事】飛鳥時代の問題|一問一答43題!詳しい解説つき

【人気記事】奈良時代の総まとめ!読むだけで面白いほどわかる!

さて、まずは年表で飛鳥時代が日本史全体のどのあたりなのかを確認するところからはじめましょう。

日本史における飛鳥時代
  • 紀元前4世紀~3世紀中頃

    水稲耕作の本格化

  • 3世紀中頃~7世紀

    4世紀にヤマト政権が成立

  • 592年~710年
    飛鳥時代
    • 蘇我氏そがしの権力独占
    • 大化の改新
    • 律令国家りつりょうこっかの形成

  • 710~794年
    奈良時代

継体天皇の時代のまとめ

飛鳥あすか時代がはじまるのは592年の推古朝すいこちょうからですが、まずは6世紀前半継体けいたい天皇の時代を見ていきましょう。

継体朝から解説をはじめた方が、飛鳥時代の流れを理解しやすいからです。

継体天皇の即位

さて、ヤマト政権武烈ぶれつ天皇の死後、なかなか後継者が見つからず、天皇家の断絶だんぜつの危機に直面します。

このとき大伴金村おおとものかなむら越前えちぜん福井県)から継体けいたい天皇を迎えて即位させました。こうして天皇家断絶の危機を救った大伴金村は絶大な権力を握ることになるわけです。

大伴金村の失脚

飛鳥時代の東アジア情勢
6世紀~7世紀の朝鮮半島の地図

上図はこの時代の朝鮮半島の略図です。

加耶かやにはヤマト政権の拠点きょてんがあり、またヤマト政権は百済くだらと深いつながりを持っていました

また、このころ、中国が弱体化し、高句麗こうくりが大きな力を持つようになります。そのため高句麗は、新羅しらぎ百済くだら両国を圧迫します。その結果、新羅と百済はそれぞれ、日本の勢力圏である加耶かやを圧迫します。

6世紀の東アジア情勢と朝鮮半島における日本の勢力圏

加耶かやは朝鮮半島の日本の重要拠点!

大伴金村による任那四県の割譲

このとき朝鮮半島の経営を任されていたのは大伴金村でした。そして512年になると百済の要請で、大伴金村は加耶西部にある任那四県みまなよんけんという地域を百済くだらにあげてしまいます。

賄賂疑惑

その際、大伴金村は百済から賄賂わいろを受け取ったのではないか?と疑われます。その結果、物部尾輿もののべのおこしらが賄賂疑惑わいろぎわくで追求され、540年には大伴金村は失脚してしまいます。

この事件の影響は次の2つです。

  • 朝鮮半島に対する日本の支配力が急速に失われた
  • 大伴氏の失脚により蘇我氏そがし物部氏もののべしの対立が激化した

任那みまな割譲かつじょう大伴金村おおとものかなむらは失脚する!

磐井の乱

任那復興のため大軍を派遣

ヤマト政権は任那みまなの回復を図り、近江毛野おうみのけぬ率いる大軍を新羅しらぎに向けて派遣します。当時、ヤマト政権と新羅は任那の奪い合いをしていたためです。

しかし九州の地で、独自に新羅と結んだ筑紫国造磐井つくしのくにのみやつこいわいの抵抗を受け、海を渡ることができませんでした。

  • 日本は任那みまなを取り戻したかった!
  • 新羅しらぎも任那が欲しかった!
筑紫国造磐井が反乱を起こした理由

筑紫国造磐井つくしのくにのみやつこいわいは九州の大豪族でしたが、ヤマト政権に不満をもっていました

このような状況を利用して、新羅は磐井に賄賂わいろを支払い、ヤマト政権に対して反乱を起こすよう、そそのかしたのです。

つまり新羅は磐井を利用して、ヤマト政権の新羅への侵攻を阻止したわけです。

これが527年の磐井いわいらんです。

磐井の鎮圧

翌528年、ヤマト政権は磐井の乱を鎮圧するため物部麁鹿火もののべのあらかびを派遣し、磐井を斬ります。

戦後、磐井の領地だった場所には天皇の直轄地ちょっかつちである屯倉みやけが設置されます。

【参考】氏姓制度と私地私民のまとめ

527年:磐井いわいらん

欽明天皇の時代のまとめ

欽明きんめい天皇といえば仏教です!

百済くだら聖明王せいめいおうが6世紀半ば頃に日本に仏教を伝えます。これを「仏教の公伝こうでん」といいます。

日本に仏教がはいっていきたのはいいのですが、仏教を受け入れるかどうかで、蘇我氏そがし物部氏もののべし激しく対立します!

「仏教の公伝」については以下の記事で詳しくまとめてありますので、是非、当記事とあわせて読んでみていただければと思います!

仏教の公伝まとめ!一問一答つき!

欽明きんめい天皇といえば仏教

用明天皇の死後

用明天皇の死後、大臣おおおみ蘇我氏そがし大連おおむらじ物部氏もののべしの対立が爆発します!

この対立は実際に戦争にまで発展しますが、財政権を握り権力を強めていた蘇我馬子そがのうまこ物部守屋もののべのもりやを滅ぼします。

これにより蘇我氏の権力はさらに拡大します。これを蘇我氏そがし専横せんおうといいます。「専横」とは「わがままで横暴おうぼうなふるまい」のことですよ。

崇峻天皇/推古天皇の時代のまとめ

絶大な権力を握った蘇我馬子そがのうまこ崇峻すしゅん天皇を即位させ、政権を独占します。

崇峻天皇の暗殺

しかし、次第に蘇我馬子と崇峻すしゅん天皇が対立するようになると、592年、蘇我馬子は渡来人を使って崇峻天皇を暗殺してしまいます。

推古天皇の即位

そして、同592年、蘇我馬子は日本で最初の女性の天皇である推古すいこ天皇を即位させます。

飛鳥時代は592年~710年ですから、推古天皇の即位のタイミングでようやく飛鳥時代がはじまりますね!

厩戸王を摂政に任命

翌593年には天皇のおい厩戸王うまやとおう聖徳太子しょうとくたいし)が摂政せっしょうに就きます。「摂政」とは天皇にかわって政治全般を行う地位のことですよ。

こうして、蘇我馬子と厩戸王うまやとおう(聖徳太子)はともに政治にあたることになります。

なお、「厩戸王うまやとおう=聖徳太子」です。

※以後「聖徳太子」と記載

蘇我馬子そがのうまこ崇峻すしゅん天皇を暗殺し、推古すいこ天皇を即位させた!

聖徳太子の政策

冠位十二階

簡単に言えば氏姓制度で定められた、うじとは「一族」のことで、かばねとは「身分」のことです。

603年に制定された冠位十二階かんいじゅうにかいは、身分が一族の家柄で決まってしまうのを防ぐため、個人の才能と実績に対して身分を与える制度です。

これにより氏族単位ではなく、個人単位の人材採用が可能になったわけです。

世襲制せしゅうせいであった氏姓制度とは違い、冠位十二階で与えられる身分は1代限りのものでした。世襲制とは一族に与えられたくらいが代々子孫に受け継がれていくことですよ。

また、冠位十二階では出世も可能でした。

聖徳太子しょうとくたいしが作った冠位十二階かんいじゅうにかい個人の功績や才能に応じてを与える制度!位は1代限りで、出世も可能

憲法十七条

聖徳太子の政策としては604年の憲法十七条けんぽうじゅうななじょうの制定も有名です。簡単に言えば豪族に役人としての心構えを示したものです。

重要史料なので簡単に本文を確認しておきましょう。

一に曰く、もったっとしとなし、さかふることきをむねとせよ。……
二に曰く、あつ三宝さんぽううやまへ。三宝さんぽうとは、ほとけのりほうしなり。……
三に曰く、みことのりうけたまわりては必ずつつしめ。……

【現代語訳】

一、和を尊び、人と争うことのないようにしなさい。
二、深く三宝を敬いなさい。三宝とは仏とその教えと僧侶のことである。
三、天皇の命令を受けたらちゃんと従いなさい。

憲法十七条は、後の律令りつりょうにもつながるもので、天皇中心の国家であることを示し、また豪族同士の争いをやめるようにと述べています。

※「律令」とは法律のこと。

遣隋使
小野妹子の派遣

遣隋使けんずいしでは607年に中国のずい小野妹子おののいもこを派遣し、従来の朝貢外交ではなく、新たに対等外交を求める国書を持参します。

朝貢外交とは中国に認めてもらうためにお土産を持って挨拶に行くことです。一方、対等外交とは、簡単に言えば、中国の権力を借りずに、独立して豪族を統治していく方針のことです。

隋の皇帝、煬帝ようだいはこれに激怒しますが、高句麗と対立している状況で日本を敵にまわすのは不利と考え、答礼使とうれいし(返事をするための使者)として裴世清はいせいせいを日本に派遣します。

裴世清の帰国

翌608年の裴世清の帰国にあわせて再び、小野妹子に向かいます。このとき留学生として高向玄理たかむこのげんりが、留学僧として、南淵請安みなみぶちしょうあんみんが同行します。

高向玄理たかむこのげんりみん大化の改新でも活躍しますよ!

なお、遣隋使については『隋書』倭国伝を超わかりやすく解説で詳しく説明しています。『隋書』倭国伝は入試超頻出の重要史料なので、あわせて確認してみてくださいね!

こうして様々な政策を打ち出した聖徳太子も622年に亡くなってしまいます。聖徳太子の死後、蘇我氏(蘇我蝦夷そがのえみし)は再び権力を強め、舒明じょめい天皇を即位させます。

舒明天皇の時代のまとめ

舒明じょめい天皇といえば初の遣唐使けんとうしです!派遣されたのは犬上御田鍬いぬがみのみたすきでした。

また、舒明天皇の死後、最も有力な皇位継承者は聖徳太子の子である山背大兄王やましろのおおえのおうでした。しかし、山背大兄王を邪魔に思った蘇我入鹿そがのいるかは、山背大兄王を自殺に追い込み滅ぼしてしまいます

皇極天皇/孝徳天皇の時代のまとめ

皇極こうぎょく天皇→孝徳こうとく天皇」の時代になると、ついに蘇我氏が滅ぼされ、「大化の改新」と呼ばれる政治改革が行われます。

蘇我入鹿の権力独占

蘇我蝦夷そがのえみしは女帝である皇極こうぎょく天皇を立てます。皇極天皇の下で絶大な権力をふるったのが、蝦夷えみしの子、蘇我入鹿そがのいるかです。

唐の拡大

618年に中国でとうが成立すると、世界的な大帝国を築き上げます。

こうした唐の拡大は周辺諸国に「もしかしたら唐にのみ込まれるかもしれない」という大きな危機感を与えました。

もちろん日本も例外ではなく、国内での危機感を強め、天皇中心の中央集権国家を実現する必要性を痛感するようになります。

中央集権国家とは1箇所に全ての権力が集中している強い国家のことです!

乙巳の変

こうした経緯から、中大兄皇子なかのおおえのみこ中臣鎌足なかとみのかまたりらは協力して蘇我氏を滅ぼします。この645年のクーデター事件が乙巳いっしへんです。

乙巳いっしへんでは、蘇我入鹿そがのいるかを暗殺し、その父、蘇我蝦夷そがのえみしを自殺に追い込みます。

こうして長く続いた蘇我氏の権力独占は終わりを迎えたのです。

そして、唐の拡大への危機感から起きた、乙巳いっしへんに始まる一連の政治改革大化たいか改新かいしんといいます。

大化の改新の目的はに負けないために中央集権体制を確立すること!

新政府の発足

乙巳の変以後は一言で言うと「中大兄皇子なかのおおえのみこの時代」です。

645年乙巳の変後、ただちに新政府が発足します。

新政府では、蘇我氏が立てた皇極こうぎょく天皇にかわり、孝徳こうとく天皇が即位します。

このとき皇太子こうたいしとして権力を握ったのが中大兄皇子なかのおおえのみこです。

中大兄皇子は最終的には天智てんじ天皇として即位しますが、しばらくの間、皇太子として実権を握ります。皇太子として裏から政治を操った方が、自分のやりたい政治を実現できると考えたためです。

また、新政府では内臣うちつおみ中臣鎌足なかとみのかまたり左大臣阿倍内麻呂あべのうちまろ右大臣蘇我倉山田石川麻呂そがのくらやまだいしかわまろが任命されます。

さらに、遣隋使で活躍し、その後、唐の政治を学んで帰国した、高向玄理たかむこのげんりみん国博士くにのはかせとして中大兄皇子の政治を助けます。

ちなみに、阿倍内麻呂あべのうちまろは旧豪族を代表する長老で、乙巳の変のとき中大兄皇子に協力した人物です。また蘇我倉山田石川麻呂そがのくらやまだいしかわまろも乙巳の変のときの協力者です。

【新政府の主要メンバー】

  • 天皇:孝徳こうとく天皇
  • 皇太子こうたいし中大兄皇子なかのおおえのみこ
  • 内臣うちつおみ中臣鎌足なかとみのかまたり

難波宮への遷都

同645年には、飛鳥あすかから難波長柄豊碕宮なにわながらとよさきのみやへの遷都せんとが行われます。遷都とは首都を移すことですよ。

改新の詔の発布

646年には、改新かいしんみことのりが発布されます。その目的は唐の律令(法律)にならって、天皇中心の中央集権体制を確立することです。

改新の詔の要約

改新の詔では次の4つの方針が打ち出されました。

  1. 皇族や豪族の私有地・私有民は国家の支配とする公地公民制こうちこうみんせい
  2. 地方の行政区画を制定する
  3. 戸籍こせき計帳けいちょうを作成し、班田収授はんでんしゅうじゅを実施する
  4. 新しい統一的税制を施行する

改新の詔の内容はあくまで「目標」であって、実際に全てが実現されたわけではありません。

公地公民制とは

また、第1条で掲げられた公地公民制こうちこうみんせいは、従来の私地私民しちしみん(天皇や豪族が土地・人民をそれぞれ独自に所有する制度)を根本から見直し、土地・人民を全てとりあげて国のものにするという制度です。

当然、私有地・私有民をとりあげられるわけですから、豪族からの反発が予想されますが、上級豪族には食封じきふという給与が与えられたので、それほど反対はなかったようです。

班田収授とは

第3条の班田収授はんでんしゅうじゅとは全ての土地を国のものとし、それを農民などに貸し与え、死亡したらとりあげる制度です。

戸籍こせきとは土地を人民に貸し出すための台帳で、計帳けいちょうとは人民から税をとるための台帳です。

しかし、この班田収授も目標として掲げられただけで、大化の改新の段階では実現されませんでした。

646年の改新の詔から24年後の670年になってようやく、日本で初めての全国的な戸籍(庚午年籍こうごねんじゃく)が作成されたことからも、大化の改新の時点では班田収授は実施されなかったことが分かります。

最終的に班田収授が実施されたのは692年くらいと考えられています。

さて重要史料である改新の詔の詳細は下記の記事で確認して頂ければと思います。

史料問題に対処するには実際に改新の詔を読んでみる必要がありますよ!

改新の詔のまとめ!超わかりやすく解説!一問一答つき

646年改新の詔を発布

東北地方への進出

孝徳天皇、中大兄皇子らは東北地方の蝦夷えみしを支配するための足がかりとして新潟県越後国えちごのくに)の日本海側に、2つのとりでを築きます。647年には渟足柵ぬたりのさくを、翌648年には磐舟柵いわふねのさくを設置します。

【人気記事】飛鳥時代の問題|一問一答43題!詳しい解説つき

ここまでのまとめ

ここまでで、飛鳥時代(592年~710年)全体のうち、「推古朝→大化の改新」を扱いました。飛鳥時代の歴史の流れを見失わないように、いったん年表に整理しておきますね。

推古朝~大化の改新までの年表
  • 592年
    推古すいこ天皇の即位(飛鳥あすか時代のはじまり)

    崇峻すしゅん天皇と対立した蘇我馬子そがのうまこは、崇峻天皇を暗殺し、同592年に推古すいこ天皇を即位させます。これが飛鳥時代のはじまりです。

  • 593年
    聖徳太子が推古天皇の摂政せっしょうに就任

    聖徳太子しょうとくたいし厩戸王うまやとおう)が推古すいこ天皇の摂政せっしょうに就任し蘇我馬子そがのうまことともに政治を行います。

  • 603年
    冠位十二階を制定

    氏姓制度しせいせいどの弊害をなくすべく、冠位十二階かんいじゅうにかいを制定します。これにより、一族単位ではなく個人単位の人材採用が可能になります。

  • 604年
    憲法十七条の制定

    豪族に官僚かんりょうとしての心構えを説きます。

    【参考記事】聖徳太子「十七条憲法」の内容・目的を超わかりやすく解説!(日本史史料)

  • 607年
    第2回・遣隋使けんずいしの実施

    小野妹子おののいもこずいに派遣され、隋の皇帝の煬帝ようだいに対等外交を求める国書を持参します。

    【参考記事】遣隋使が15分で分かる『隋書』倭国伝の内容を超わかりやすく解説!(日本史史料)

  • 630年
    初の遣唐使けんとうしを実施

    舒明じょめい天皇のとき、初の遣唐使が実施され、犬上御田鍬いぬがみのみたすきとうに派遣されます。

  • 643年
    蘇我氏が山背大兄王やましろのおおえのおうを滅ぼす

    蘇我入鹿そがのいるかが聖徳太子の子の山背大兄王やましろのおおえのおうを自殺に追い込み、権力を独占します。

  • 645年
    乙巳いっしへん・大化の改新

    中大兄皇子なかのおおえのみこ中臣鎌足なかとみのかまたりらが中心となり、蘇我氏を滅ぼします。同645年に孝徳こうとく天皇が即位し、翌646年には改新のみことのりが発布されます。

    【参考記事】大化の改新の内容を簡単に超わかりやすく解説!改新の詔の内容も!(日本史史料)

  • 647年
    新潟県に渟足柵ぬたりのさくを設置
  • 648年
    新潟県に磐舟柵いわふねのさくを設置

斉明天皇の時代のまとめ

【補足】孝徳天皇は654年に難波宮なにわのみやで死去します。

斉明天皇の重祚

孝徳天皇の死後も中大兄皇子は天皇に即位せず、自分の母親である元皇極こうぎょく天皇斉明さいめい天皇として再び即位させました。つまり、皇極天皇と斉明天皇は同一人物です。

このように一度退位した元天皇が再び皇位につくこと重祚ちょうそといいます。

皇極天皇は女性ですから当然、斉明天皇も女性ですよ。

蝦夷の平定

すでに孝徳こうとく天皇の時代に、新潟県に渟足柵ぬたりのさく磐舟柵いわふねのさくを設置し、東北経営の足がかりとしていますが、その約10年後の658年には斉明さいめい天皇の下で、阿倍比羅夫あべのひらふを東北地方に派遣し、蝦夷えみしの討伐を行います。

阿倍比羅夫あべのひらふは次々に勝利をおさめ北海道まで進軍したようです。

斉明天皇の時代の朝鮮半島情勢

大国、唐の強大化は日本を含む周辺諸国に危機感を与え続けていました。この心配がついに現実のものとなり、660年にとう新羅しらぎの連合軍が百済くだらを滅ぼしてしまいます。

百済は日本にとって大切な友好国ですから、ヤマト政権も黙ってはいませんよ!

百済の救援

百済の生き残りの王族は、日本に百済復興のための救援を要請します。

これに応じた、斉明天皇、中大兄皇子らは大軍を朝鮮半島に派遣することを決定し、筑紫つくし(福岡県)に移動します。

百済の救援は最前線に天皇と皇太子が移動するほどの大規模な作戦でした。

しかし、斉明天皇は661年に筑紫(福岡県)で亡くなってしまいます。

中大兄皇子の称制のまとめ

称制とは

661年に斉明天皇が筑紫つくし(福岡県)で亡くなると、中大兄皇子なかのおおえのみこは天皇に即位せずに国政をみました。天皇は空位のままです。つまり中大兄皇子は事実上の天皇なのですが、形式的には天皇になっていない。

このように天皇の代理を務めることを称制しょうせいといいます。

白村江の戦い

661年に斉明天皇は筑紫つくし(福岡県)で死去しますが、中大兄皇子が百済救援軍の派遣を引き継ぎ、ついに663年に朝鮮半島の白村江はくそんこう唐・新羅連合軍と激突します!

663年の白村江の戦いの地図

しかし、日本はボロ負けしてしまいます。これが白村江はくそんこうの戦いです。

その結果、百済は完全に滅び、日本も朝鮮半島における足がかりを失ってしまいます。

白村江の戦いで大敗した中大兄皇子は、唐・新羅連合軍が日本に攻めてくることを恐れ、様々な対策を実行します。

大津宮への遷都

白村江の戦い後の難波宮から大津宮への遷都の図解

これまで首都機能のあった難波長柄豊碕宮なにわながらとよさきのみやは、上図のように大阪湾に面しており、万が一、唐・新羅連合軍が大阪湾まで攻めてきた場合、首都機能を失ってしまう危険があります。

そこで、中大兄皇子は、667年に近江大津宮おうみおおつのみやに首都機能を移転します。近江おうみとは現在の滋賀県のことですよ。

668年、中大兄皇子なかのおおえのみこ近江大津宮おうみおおつのみやで、ようやく天皇に即位します。これが天智てんじ天皇です。

天智天皇の時代のまとめ

国防政策の推進

唐・新羅連合軍が最も攻めてくる可能性が高いのは朝鮮半島に一番近い九州北部です。そしてヤマト政権の九州における中心的な拠点が太宰府だざいふです。

そこで、天智てんじ天皇太宰府だざいふの守りを固めるため、太宰府の北に水城みずきという堤防を築きます。

さらに、太宰府の北の山上には大野城おおのじょうという朝鮮式山城ちょうせんしきやまじろを設置します。朝鮮式山城とは百済の技術を導入して作られた防御施設ですよ。

近江令の制定

天智天皇は、中国風の法律を作ろうということで、中臣鎌足なかとみのかまたりに命じ、668年に近江令おうみりょうを制定します。近江令は日本で最初の法令ですが、現存せず、存在自体が怪しいという説もあります。

庚午年籍の作成

また、670年に天智天皇のもとで作成された日本初の全国規模の戸籍庚午年籍こうごねんじゃくといいます。

庚午年籍こうごねんじゃくは人民に土地を貸し与えるための根本台帳で、氏名・続柄・性別・年齢などが記載されていると想像されますが、残念ながら現存しておらず、詳細は不明です。

なお、翌671年に天智天皇は死去し、皇位継承争いに発展していきます。

天武天皇/持統天皇の時代のまとめ

天武てんむ天皇持統じとう天皇は夫婦です。天武天皇が志なかばで死去すると、持統天皇は夫である天武天皇がやり残した事業を次々と完成させていきます

壬申の乱

671年に天智天皇が亡くなると、翌672年、古代史最大の内乱である壬申じんしんらんが起きます。

壬申の乱では天智天皇の大友皇子おおとものみこ大海人皇子おおあまのみこが争います。

普通に考えれば、天智天皇の子である大友皇子おおとものみこが後継者になるはずですが、「中大兄皇子→天智天皇」の政治改革に不満を持つ勢力は、天智天皇と子の大友皇子に反発し、大海人皇子おおあまのみこのもとに集まります。

こうして壬申じんしんらんへのと発展し、最終的には大海人皇子が勝利。

飛鳥浄御原宮あすかきよみはらのみや天武てんむ天皇として即位します。

  • 中大兄皇子 = 天智てんじ天皇
  • 大海人皇子おおあまのみこ天武てんむ天皇

皇親政治の推進

地方豪族など下級身分の者を味方につけた大海人皇子が、中央豪族を主体とする大友皇子の勢力を攻め滅ぼしたことで、大豪族が力を失い、天皇の権力が大きく高まります

大豪族を倒して即位した天武てんむ天皇天皇を中心とする政治体制の確立を目指します。これを皇親政治こうしんせいじといいます。

つまり中央集権を強力に推し進めていったわけです。

八色の姓とは

天武てんむ天皇684年に皇親政治こうしんせいじ(天皇中心の政治)を推し進めるための具体策として、豪族の身分制度を再編成すべく八色やくさかばねを制定します。

八色やくさかばねでは、天皇に近い立場の者ほど高い地位につくことができ氏姓制度では最高位であった、おみむらじは下位とされました。

富本銭の発行

天武天皇の時代には、日本最古の貨幣(お金)である富本銭ふほんせんが発行されましたよ。

【参考】和同開珎と富本銭の違い

飛鳥浄御原令

また、681年、天武天皇は飛鳥浄御原令あすかきよみはらりょうの作成に着手します。作っただけで施行しこうはまだですよ!「りょう」とは現代の行政法のことです。

藤原京の造営

さらに、新しい都として藤原京ふじわらきょうの造営を開始しますが、遷都はまだですよ!

天武天皇は飛鳥浄御原令あすかきよみはらりょうの作成や藤原京ふじわらきょうの造営などの事業が未完成のまま、686年に病死してしまいますが、これらの事業は持統じとう天皇が引き継ぎ、見事完成させます。

飛鳥浄御原令の施行

天武天皇の病死から3年後の689年、持統じとう天皇の事業を引き継ぎ、飛鳥浄御原令あすかきよみはらりょう施行しこうします。飛鳥浄御原令は689年~701年大宝律令たいほうりつりょうの成立まで続きますよ。

庚寅年籍の作成

690年、持統天皇は飛鳥浄御原令あすかきよみはらりょうに基づいて庚寅年籍こういんねんじゃくという新しい戸籍を作ります。戸籍とは人民に土地を貸し与えるための根本台帳のことでしたね。

  • 天智てんじ天皇年籍こうごねんじゃく
  • 持統じとう天皇年籍こういんねんじゃく

藤原京への遷都

694年、持統天皇は夫の天武天皇がやり残した藤原京ふじわらきょうへの遷都を成し遂げます。藤原京ふじわらきょうは唐の都、長安をモデルに造営され、日本初の本格的な都城制とじょうせいをもった都です。694年~710年まで続きました。

文武天皇の時代のまとめ

持統天皇は697年に孫の文武もんむ天皇に皇位を譲ります。そして文武もんむ天皇の治世になると701年には大宝律令たいほうりつりょうが成立し、翌702年にこれを使い始めます。

大宝律令たいほうりつりょうを作成したのは藤原不比等ふじわらのふひと刑部親王おさかべしんのうらを中心とするメンバーです。

補足

藤原不比等ふじわらのふひと中臣鎌足なかとみのかまたりの子ですよ。中臣鎌足は死後、藤原ふじわらを与えられ藤原鎌足ふじわらのかまたりとなります。つまり「藤原鎌足→藤原不比等」ですね。藤原氏ふじわらしはこの後どんどん栄えていきますよ。なお、藤原氏藤原鎌足ふじわらのかまたりおやとする一族です。

さて、これまで「~令」はありましたが、「」はありませんでした。そのため【大宝律令】は「律」と「令」がそろった初めての法律です。「」とは行政法のことでしたね。一方、「」とは刑法のことですよ。

大宝律令たいほうりつりょうの具体的な内容はけっこう難しいですが、定期試験や大学入試では頻出ですよ!

また律令制度の基本的な仕組みは日本史全体の理解に欠かせないものなので、試験とは無縁な方でも、今のうちにしっかり確認しておきたいですね!

下記の記事を読めば、律令制度(大宝律令)が面白いほど簡単に理解できますよ!

【重要】律令制度を簡単に超わかりやすく解説!大宝律令の内容とは?

文武もんむ天皇大宝律令たいほうりつりょう

こうして元明げんめい天皇の時代に入ると、710年に平城京へいじょうきょうへの遷都が実施され、飛鳥時代が終わり、奈良時代へと突入していくのです!

本当にお疲れ様でした!ここまで読んでいただきありがとうございます!

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