遣隋使が15分で分かる『隋書』倭国伝の内容を超わかりやすく解説!(日本史史料)

日本史

『隋書』倭国伝の覚え方・効率的な暗記方法

この記事では隋書ずいしょ倭国伝わこくでんの内容を超わかりやすく説明していきます。

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日本史の定期テスト・大学受験・歴史能力検定に役立つ内容になっています。難関大学の入試問題にも十分対応できる中身になっています!

教養として読んでも面白いわね!
涼子
涼子

また『隋書』倭国伝の解説を読んだ後に効率的に用語暗記ができるよう記事の最後に下記のような一問一答9題、設置しました。

例題607年、推古天皇は、(  )を隋に派遣した。[明治大]

「+解答解説」ボタンを押すと「解説」と「答え」を確認することができます。

解答解説
正解は小野妹子おののいもこです。607年遣隋使けんずいし2回目の遣隋使で、このときずいの皇帝は煬帝ようだいでした。

この記事をうまく活用すれば「解説で理解」→「一問一答で暗記」の二段構えで『隋書』倭国伝を完全マスターできます!

試験対策に後で一問一答もやっておこうかしら!?
明日香
明日香

『隋書』倭国伝を超わかりやすく解説!

『隋書』倭国伝の概要

隋書ずいしょ倭国伝わこくでんは7世紀に魏徴ぎちょうらが作った「ずい」の歴史書です。

そのはしっこのほうに倭についての記述がちょびっとだけあります。特にポイントになってくるのは遣隋使けんずいしに関する部分です。

では、早速ですが、『隋書』倭国伝の本文を一緒に読み解いていきましょう!

『隋書』倭国伝の内容

まずは一番最初の遣隋使に関する記述から確認していきます。

第1回:600年の遣隋使について

『隋書』倭国伝(1)
開皇二十年かいこうにじゅうねん倭王わおうせい阿毎あめあざな多利思比孤たりしひこ阿輩雞彌おおきみごうす。使つかいつかわしてけついたる。しょう所司しょしをして風俗ふうぞくはしむ。…
現代語訳西暦600年、倭王の姓はアメ、名は多利思比孤たりしひこが、大王おおきみと名乗り、使者を皇帝のもとに派遣してきた。文帝ぶんていは役人に命じて倭の風俗について質問させた。

推古天皇すいこてんのうの時代の外交と言えば遣隋使けんずいしですね。ちなみにこの時代の権力者は厩戸王うまやとおう聖徳太子しょうとくたいし大臣おおおみ蘇我馬子そがのうまこの2人です。

涼子
涼子
阿輩雞彌おおきみ」とは大王おおきみのことよ!たまに大学入試に出題されるわよ。

確かにこの記述には倭王の紹介がありますが、「多利思比孤たりしひこ」というのは男性の名前です。

推古天皇は女性なので、「アメ」、「多利思比孤」の部分は誰のことを指しているのかいまいち分かっていません。

明日香
明日香
とりあえず「アメ」、「多利思比孤」の部分はヤマト政権の大王と考えておけば良さそうね!

で、上記の遣隋使の記録には、600年に一番最初の遣隋使を送ったときのことについて書かれています。「開皇二十年かいこうにじゅうねん」が西暦600年のことです。

有名な607年の小野妹子おののいもこの遣隋使は2回目なので注意してくださいね。

第1回目の遣隋使の使者の名前は分かっていません。

西暦600年の話なので推古天皇の時代に初回の遣隋使が行われたことになります。

この初回の遣隋使の記録は日本側の史料には記載がありません。『隋書』倭国伝にのみ書いてあります

日本はなんで第1回遣隋使を記録に残しておかなかったのかなー?
ゆん
ゆん

なお、このときの隋の皇帝は文帝ぶんていなので注意してくださいね。「しょう所司しょしをして風俗ふうぞくはしむ。」の「」が文帝のことを指しています!

ゆん
ゆん
600年の第1回遣隋使は文帝の治世に行われたのね。使者の名前は不明と…。有名な小野妹子の遣隋使は第2回目なのね。

続いて、607年の2回目の遣隋使について書いてある部分を確認していきましょう。有名な小野妹子の遣隋使に関する記述です。

第2回:607年の遣隋使について

『隋書』倭国伝(2)
大業三年だいぎょうさんねんおう多利思比孤たりしひこ使つかいつかわして朝貢ちょうこうす。使者ししゃいわく「くならく、海西かいせい菩薩天子ぼさつてんしかさねて仏法ぶっぽうおこすと。かれつかわして朝拝ちょうはいせしめ、ねて沙門しゃもん数十人、きたりて仏法ぶっぽうまなぶ」と。国書こくしょいわく「づるところ天子てんししょぼっするところ天子てんしいたす。つつがきや、云々うんぬん」と。ていこれよろこばず。鴻臚卿こうろけいいていわく「蛮夷ばんいしょ無礼ぶれいなるらば、もっぶんするなかれ」と。明年みょうねんじょう文林郎裴清ぶんりんろうはいせいつかわして倭国わこく使つかいせしむ。
やたら長いわね…
明日香
明日香
涼子
涼子
一行一行、丁寧に解説していくからだいじょうぶよ!

冒頭の「大業三年だいぎょうさんねん」とは西暦607年のことです。小野妹子おののいもこを中国に派遣した年です。

史料から第2回遣隋使の年号がわかるわね
ゆん
ゆん
おう多利思比孤たりしひこ使つかいつかわして朝貢ちょうこうす。

「倭王が朝貢してきた」という意味ですね。

使者ししゃいわく「くならく、海西かいせい菩薩天子ぼさつてんしかさねて仏法ぶっぽうおこすと。かれつかわして朝拝ちょうはいせしめ、ねて沙門しゃもん数十人、きたりて仏法ぶっぽうまなぶ」と。
現代語訳小野妹子は「煬帝が仏教を重んじていると聞いて私が拝礼のために派遣されました。同行した僧数十人に仏教を学ばせたいと思っております」と言った。

海西かいせい菩薩天子ぼさつてんし」とはの皇帝、煬帝ようだいのことです。

2回目の小野妹子の遣隋使は煬帝の治世に実施されました。

涼子
涼子
「仏教の公伝」は6世紀前半~中頃のことだから、まだ日本は仏教にあまり詳しくなかったのね。そこで僧を仏教先進国である中国に留学させたわけね。
6世紀には仏教を受け入れるかどうかであんなにケンカしてたのに、607年にすっかり仏教が受け入れられているようね…
明日香
明日香
涼子
涼子
そうねwそして「国書こくしょいわ」の国書とは倭王から隋への手紙ね。この手紙が問題なのよ。
づるところ天子てんししょぼっするところ天子てんしいたす。つつがきや、云々うんぬん」と。

この部分が問題の「国書」の中身です。「太陽が昇る国(日本)の天皇が、太陽の沈む国(中国)の天皇に書を送ります。お元気でしょうか?」と書かれています。

ここで、

  • 「日出づる処の天子」=「倭王」
  • 「日没する処の天子」=「煬帝

です。

中国に対して「太陽が沈む国」なんて言い方をしたら失礼すぎない!?
明日香
明日香
涼子
涼子
隋の煬帝は当然激怒するわよ。『隋書』倭国伝には煬帝がキレている様子もちゃんと書いてあるわ…。
ていこれよろこばず。鴻臚卿こうろけいいていわく「蛮夷ばんいしょ無礼ぶれいなるらば、もっぶんするなかれ」と。
現代語訳煬帝はこの国書を読んで不機嫌になった。外務大臣の鴻臚卿こうろけいに「野蛮な国の国書に無礼なことが書いてあった、このような無礼な国書は二度と私に見せるな」と命じた。

日本は従来の朝貢外交をやめて、対等外交を求めたわけですね。それで煬帝は激怒した。

明年みょうねんじょう文林郎裴清ぶんりんろうはいせいつかわして倭国わこく使つかいせしむ。

翌608年には裴世清はいせいせいを日本に使者として送った」という意味です。

煬帝は激怒したものの、高句麗こうくりと戦争する計画があったため、日本とはケンカしたくなかった。そこで結局、国書を無視せず、裴世清を日本に派遣することにしたわけです。

第3回:608年の遣隋使について

608年に日本に来た裴世清ですが、『日本書紀』によれば、同608年、早くも帰国します。

このとき裴世清の帰国にあわせて、小野妹子ももう一度、隋へ向かいます。さらに高向玄理たかむこのげんり南淵請安みなみぶちしょうあんみんの3名も勉強のために同行します。この3人のうち、高向玄理と旻の2人は、帰国後に大化の改新で大活躍しますよ。

これが608年の第3回遣隋使です。

推古天皇、蘇我馬子、聖徳太子(厩戸王)らは中国との対等外交を成功させたわけですね。

ちなみに、余談にはなりますが、614年にも遣隋使が行われています。このときの日本側の使者は犬上御田鍬いぬがみのみたすきです。

明日香
明日香
クワ」と書いて「スキ」と読むので間違えないようにしないと…

しかしこの4年後の618年には隋は滅んでしまい中国はとうの時代になります。

さて、ここからは一問一答で知識を定着させていきましょう!

涼子
涼子
定期試験や大学受験のために重要用語を暗記できるようになっているわ。
なるほど。ちゃんと答えと解説を隠して暗記できるみたいね。
明日香
明日香

一問一答!7題

なお「+解答解説」ボタンを押すと「解説」と「答え」を確認することができます。

1.第1回遣隋使のときの隋の皇帝は誰か?

解答解説1
正解は文帝ぶんていです。第1回遣隋使の年「開皇かいこう二十年」すなわち西暦600年の頃はまだ文帝が隋の王様でした。

2.次の史料を読んで後の設問に答えよ。

大業三年、其の王多利思比孤、使を遣して朝貢す。使者曰く「聞くならく、海西の菩薩天子、重ねて仏法を興すと。故、遣して朝拝せしめ、兼ねて沙門数十人、来りて仏法を学ぶ」と。その国書に曰く、「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや、云々」と。帝、之を覧て悦ばず。

問1.この史料の出典は何か?[関西学院大]

問1の解答解説
正解は隋書ずいしょ倭国伝わこくでんです。超頻出問題ですね。「大業三年だいぎょうさんねん」、「多利思比孤たりしひこ」、「づるところ天子てんし」というフレーズから『隋書』倭国伝だと判断したいところですね。ちなみに『隋書』倭国伝を記したのは魏徴ぎちょうです。

問2.「大業三年」とは西暦何年か?[同志社大]

問2の解答解説
正解は西暦607年です。これも超頻出問題ですね。

問3.男性名である「多利思比孤」の有力な候補者は推古天皇と(  )である。[北海道大・改題]

問3の解答解説
正解は聖徳太子しょうとくたいし厩戸王うまやとおうでも可!)です。当時の倭王は推古天皇でしたが、摂政せっしょうとして天皇に代わって政治を行う地位についていたのは聖徳太子(厩戸王)でした。

問4.「使を遣わして朝貢す」の「使」とは(  )を指す。[法政大]

問4の解答解説
正解は小野妹子おののいもこです。女性のような名前ですが男性ですからね!607年の第2回遣隋使と翌608年の第3回遣隋使では小野妹子が使者として中国の隋に派遣されました。ちなみに614年の遣隋使は犬上御田鍬いぬがみのみたすきが担当しました。

問5.「帝、之を覧て悦ばず」の「帝」とは(  )をさす。[関西学院大]

問5の解答解説
正解は煬帝ようだいです。

3.608年の遣隋使に同行した留学生に(①)が、留学僧に(②)や南淵請安がいる。[早稲田大]

解答解説3
正解は①高向玄理たかむこのげんり、②みんです。高向玄理だけ普通の留学生で、旻と南淵請安みなみぶちしょうあんは僧です。高向玄理と旻は大化の改新で政府のブレーンとして活躍することになります!

おわりに

ここまで読んでいただき本当にありがとうございました!繰り返し当記事の解説や一問一答を読み込むことで、日本史の知識が定着しますので、是非、この記事をブックマークして日本史学習の参考にして頂ければ幸いです!

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