水稲耕作の始まりと遺跡
弥生時代と水稲耕作の本格化
さて、水稲耕作が本格化したのは弥生時代の九州北部~東北地方の範囲です。弥生時代に入っても北海道と沖縄を中心とする南西諸島には農耕文化は伝わりませんでした。
弥生時代に入っても獲得経済だった北海道と沖縄
そのため弥生時代以降も北海道では狩猟採集文化である続縄文文化が展開され、沖縄や南西諸島でも狩猟採集経済の貝塚文化が展開されました。
つまり弥生時代以降、農耕文化が伝わったのは北海道と沖縄(南西諸島)を除く九州北部~東北地方の範囲だったわけです。
水稲耕作の始まりは縄文時代晩期
しかし、水稲耕作が「本格化」したのが弥生時代であって、水稲耕作がはじまったのは縄文時代晩期です。
ポイント水稲耕作の始まりは縄文晩期晩期!なぜ縄文時代晩期に水稲耕作が始まっていたことが分かるかというと、ちゃんと証拠が見つかっているからです。縄文晩期の水田跡が福岡県の板付遺跡や佐賀県の菜畑遺跡で発見されているんです。
また板付遺跡では敵から身を守るために周囲に堀をめぐらせた環濠集落跡も確認されています。板付遺跡は縄文晩期~弥生初頭の遺跡ですから、弥生時代初頭には敵との戦いを想定し防御・軍事的役割を持った環濠集落がすでに存在していたことがわかります。
[PR]今Amazonで一番売れている日本史の参考書をチェックしよう!
弥生時代の水田跡
なお、弥生時代の水田跡で有名なのは静岡県の登呂遺跡です。弥生文化の水田跡からは木製農具や高床倉庫も出土しています。
さらに、水稲耕作が東北地方まで広まっていたことを示すのが青森県の砂沢遺跡です。砂沢遺跡からは弥生時代前期の水田跡が出土しています。また、同じ青森県の垂柳遺跡からは弥生時代中期の水田跡が見つかっています。
こうした発掘調査から弥生時代前期にはすでに東北地方にまで水稲耕作が広まっていたことが分かりますね。
ちなみに、木製農具とは木材を磨製石器や鉄製工具で加工して作った農具で、耕作用の鋤・鍬・えぶりや脱穀用の木臼・竪杵などのことです。
補足「えぶり」とは水田面を平らにならす木製農具のこと!また、高床倉庫とは収穫物を保存しておく倉のこと。掘立柱で床の高い建物です。ちなみに貯蔵穴も弥生時代の食料(米)の保管施設です。
[PR]今Amazonで一番売れている日本史の参考書をチェックしよう!
一問一答!-9題-
定期テスト・大学入試・歴史能力検定に役立つ一問一答集を用意しました。大学受験の過去問からの出題が中心です。是非、日本史用語の暗記対策として活用してみて下さい。
また詳しい解説付きなので、趣味・教養として日本史を学ぶ方にとっては、ここまでの解説への理解を深める効果を期待できます。
※なお「+解答解説」ボタンを押すと「解説」と「答え」を確認することができます。
1.水稲耕作は、弥生時代の間に、九州北部から( )地方にまで広がっていった。[共通テスト(旧・センター試験)・改題]
2.佐賀県唐津市の( )遺跡からは、縄文時代晩期の土器とともに水田跡が見つかり、大陸から水稲耕作が伝わっていたことが明らかになった。
3.福岡県の( )遺跡や佐賀県の菜畑遺跡は、縄文時代晩期の水稲耕作の跡と見られている。[立教大・改題]
4.弥生文化は北海道や沖縄などの南西諸島には及ばず、北海道では(①)文化、沖縄などの南西諸島では(②)とよばれる食料最終を基礎とした文化が続いた。
5.1947年から50年にかけて大規模な発掘調査が行われ、弥生時代後期の集落、水田跡が明らかになった静岡市にある日本を代表する弥生時代の遺跡は何か?
6.弥生時代とみられる東日本最古の水田址で、垂柳遺跡(青森県)などの先駆と考えられている遺跡は何か。[上智大]
7.弥生時代の水稲耕作には木製の鍬や鋤が使われ、収穫には穂首刈り用の石包丁が、脱穀には木臼と( )が用いられた。
8.静岡県の登呂遺跡は戦中に発見され、水田や水路、住居や( )倉庫などの遺構で有名である。
9.収穫された稲は( )や高床倉庫で蓄えられた。[立命館大]
[PR]今Amazonで一番売れている日本史の参考書をチェックしよう!
おわりに
ここまで読んでいただき本当にありがとうございました!繰り返し当記事の解説や一問一答を読み込むことで、日本史の知識が定着しますので、是非、この記事をブックマークして日本史学習の参考にして頂ければ幸いです!
コメント