『後漢書』東夷伝の効率的な覚え方・暗記方法
この記事では『後漢書』東夷伝の内容を超わかりやすく説明していきます。日本史の定期テスト・大学受験・歴史能力検定に役立つ内容になっています。
また『後漢書』東夷伝の解説に加えて、記事の最後に下記のような一問一答も13題、設置しました。
例題『後漢書』東夷伝に記述のある「建武中元二年」とは西暦何年か?[中央大・改題]※「+解答解説」ボタンを押すと「解説」と「答え」を確認できます。
一問一答では記事中で登場する重要な日本史用語を「暗記/確認」できるようになっています。是非活用してみて下さい。
※なお記事の最後には付録①デカ文字で覚える要注意漢字、付録②音読用史料の2つも収録しています。
『後漢書』東夷伝の内容を超わかりやすく解説!
『後漢書』東夷伝は5世紀に成立した歴史書で、中国の後漢(西暦25年~220年)の歴史について書かれた史料です。ただし、編者は後漢ではなく宋(西暦960年~1279年)という国の范曄ですよ。
また、『後漢書』東夷伝には1~2世紀の倭国の状況がちょびっとだけ書いてあります。1~2世紀というと弥生時代中期~後期の日本にあたりますね。
では早速ですが、『後漢書』東夷伝の本文と現代語訳を確認するところから始めたいと思います。
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『後漢書』東夷伝の本文と現代語訳
とりあえず『後漢書』東夷伝の本文と現代語訳を掲載しますが、今の時点では「よくわからん!」と感じてもだいじょうぶです。丁寧に解説していきますからね。
さて、ここからは、『後漢書』東夷伝の本文を1つ1つ丁寧に解説していきます!
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ポイント①西暦57年
まず冒頭の「建武中元二年」ですが、これは西暦57年のことです。弥生時代中期のことですね。「ゴカンナラ57年」と覚えてみてはいかがでしょうか。
日本史の入試問題なんかで『後漢書』東夷伝の内容かどうかを判別するポイントはこの「建武中元二年」に着目することです。
「建武中元二年」ときたら「あ!『後漢書』東夷伝だ!」と思うようにしましょう。
ポイント②奴国王の朝貢と印綬
続いて「倭の奴国、貢を奉じて朝賀す」について検討していきましょう。
朝貢
「倭」とは日本のことですね。西暦57年の日本ですから弥生時代中期の日本です。この頃の倭(日本)は統一されておらず多くの小国がひしめき合っていました。つまり小国が分立して争い(戦争)がたえない時代だったわけです。
そうした日本の小国の1つが奴国です。奴国は福岡県の博多あたりにあった国と考えられています。で、奴国の王がお土産つきで使者を中国の後漢に派遣したわけですね。このように貢ぎ物を持って中国に挨拶に行くことを朝貢といいます。
また、「使人自ら大夫と称す」とありますから、この奴国の使者は大夫という身分だったらしいことが分かります。
印綬をゲット!
さらに「光武、賜ふに印綬を以てす」という記述から後漢の光武帝が奴国王に印綬(紐つきのハンコ)をくれたわけです。
倭(日本)にたくさんの小国がある中で、朝貢して印綬をもらうメリットは奴国が中国公認の国として認められて、自分の支配権をより確かなものにできるという点にあります。
ちなみに、江戸時代に福岡県の志賀島で、偶然にも金印が発見されました。この金印こそが光武帝が奴国王に送った印綬ではないかと考えられています。奴国は福岡県の博多付近にあった国ですから、この金印が『後漢書』東夷伝に記述のある印綬の可能性は非常に高いですよね。
で、この金印には「漢委奴国王」という文字が彫られていました。「倭」ではなく「委」ですからね!金印の方にはニンベンはついていません!!!
ポイント③奴国王「帥升」の貢ぎ物
続いて「安帝の永初元年、倭の国王帥升等、生口百六十人を献じ、請見を願ふ。」とあります。「安帝の永初元年」とは西暦107年のことです。先程の記述が57年のことですから一気に50年も経過しています。
さて「倭の国王帥升等」とありますから倭の国王のひとりに帥升という人物がいたらしい。で、107年に帥升たちが「生口百六十人を献じ」とあります。生口とは奴隷のことなので、奴隷(生きた人間)を160人、中国に献上したわけですね。
お土産をもって挨拶に行くことを朝貢というのでした。従って、朝貢によって中国に認めてもらうために生口(奴隷)160人を贈り物にしたわけですね。
ポイント④倭国大乱
「桓霊の間、倭国大いに乱れ、更相攻伐して歴年主なし。」という記述は、「桓霊の間」つまり2世紀後半(弥生時代後期)の日本では倭国大乱と呼ばれる激しい戦争が起きていたことを意味します。
「更相攻伐して歴年主なし」とは、「倭国大乱と呼ばれるひどい戦争で諸国を統一する人が長らく現れなかった」という意味です。
環濠集落と高地性集落
実際、弥生時代には集落自体が戦争を前提に作られていました。倭国大乱とセットで周囲に堀をめぐらせた環濠集落と、いざ敵が攻めてきたときに高台に逃げられるようになっている高地性集落をおさえておきましょう。
ついでに、遺跡もセットで覚えます。環濠集落の代表的な遺跡は佐賀県の吉野ヶ里遺跡です。また高地性集落といえば香川県の紫雲出山遺跡が代表的です!
※なお記事の最後には付録①デカ文字で覚える要注意漢字、付録②音読用史料の2つも収録しています。
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一問一答-13題-
大学入試の過去問を中心とした一問一答集です。「+解答解説」ボタンを押すと「解説」と「答え」を確認することができます。
1.「建武中元二年」とは西暦何年のことか。[中央大・改題]
2.「建武中元二年、倭の(①)、貢を奉じて朝賀す。使人自ら(②)と称す。」
問1.この資料の出典は何か?[北海道大・改題]
問2.空欄①に入る漢字2字の語句は何か?
問3.空欄②に入る漢字2字の語句は何か?
問4.この史料の「貢を奉じて朝賀す」とは「貢ぎ物を持って挨拶に行くこと」を意味するがこのような行為を漢字2字で何というか?
3.『後漢書』東夷伝の編者は宋の( )である。
4.中国古代の歴史書『後漢書』東夷伝によれば西暦57年に倭の奴国が使者を派遣して( )から印綬を与えられたという。[立命館大・改題]
5.「安帝の永初元年」は西暦( )年である。[早稲田大]
6.107年には、倭国王(①)等が安帝に(②)[奴隷]を献じた記録もある。[早稲田大・改題]
7.紀元57年に光武帝から下賜されたと考えられる金印が福岡市の(①)から出土しているが、その印面には(②)と彫られていた。[西南学院大・改題]
8.『後漢書』東夷伝によれば「桓霊の間、倭国大いに乱れ、更相攻伐して歴年主なし」とあるが、2世紀後半の倭国(日本)内で行われた激しい争いをなんと呼ぶか?
9.集落の周りに溝をめぐらす( )は、地域集団間の争いに備えた防衛機能をもつ集落であった。[同志社大]
10.環濠集落の代表例として、佐賀県の( )遺跡がある。[同志社大・改題]
11.環濠集落や( )集落が示すように、弥生時代には集落自体が防御機能・軍事機能をもっていた。[京都大]
12.高地性集落としては香川県の( )遺跡がある。[慶応大]
13.(①)県の吉野ケ里遺跡のような環濠集落や、(②)県の紫雲出山遺跡のような高地性集落の出現は当時の緊張した状況を物語っている。[立命館大・改題]
お疲れ様でした!一問一答集はこれで終わりです。
続いて、付録①には「注意を要する漢字の練習問題」を掲載しました。デカ文字で要注意漢字を表記したので、書き取りの練習がしやすいのが特徴です。
また日本史の史料問題に強くなるコツは「音読/黙読」を何度も繰り返すことなので、付録②には『後漢書』東夷伝の本文と現代語訳を再度、掲載しました。何度も読んで史料を頭ににしみ込ませましょう(丸暗記は不要です)。
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付録①:要注意漢字の練習問題(デカ文字で便利!)
要注意漢字を含む日本史用語をまとめました。実際にメモ帳などに書き写しながら練習すると効率的に日本史用語をインプットできます。
問題次のひらがなを漢字になおすと?1.はんよう(『後漢書』東夷伝を編集した宋の人物)
2.ちょうこう(お土産をもって挨拶に行くこと)
3.いんじゅ(光武帝が奴国王に与えた金印)
4.かんのなのわのこくおう(福岡県・志賀島で発見された金印に刻まれていた文字)
5.すいしょう(生口160人を献上した倭の国王の1人)
6.かんごうしゅうらく(防衛のため堀をめぐらせた集落)
7.しうでやまいせき(香川県にある高地性集落の代表的遺跡)
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付録②音読と黙読で覚える『後漢書』東夷伝
1回1分として30分あれば30回は「音読/黙読」できます。30回も読み込めば『後漢書』東夷伝を完全習得できることでしょう!
それでも足りない場合は50回くらい読んでみましょう!
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おわりに
ここまで読んでいただき本当にありがとうございました!繰り返し当記事の解説や一問一答を読み込むことで、日本史の知識が定着しますので、是非、この記事をブックマークして日本史学習の参考にして頂ければ幸いです!
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