前回の記事⇒弥生文化の成立(弥生初期)のまとめ
今回は弥生時代の中期~後期を解説します。
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弥生時代の中期~後期のまとめ
弥生時代にはまだ文字がありませんでした。そのため当時の様子を知るには、弥生時代の日本について書かれた中国の文献を読み解く必要があります。
今回の解説では、以下の3つの文献が順に登場します。
- 『漢書』地理志
- 『後漢書』東夷伝
- 『魏志』倭人伝
これら3つの書物を手掛かりに弥生中期~後期の日本史を見ていきましょう!
1、『漢書』地理志の時代
『漢書』地理志によれば、当時の日本は倭と呼ばれていました。
当時、倭国は百余国に分かれていたと伝えられています。
そして倭は、中国の前漢王朝が朝鮮半島においた楽浪郡に定期的に使者を送っていました。
2、『後漢書』東夷伝の時代
続いて『後漢書』東夷伝によれば、奴国王が後漢の都、洛陽に遣いを送っていました。ちなみに使者を送る理由は、貢ぎ物をするためです。せっせと貢いだ結果、後漢の光武帝から金印「漢委奴国王」を授けられます。この金印は現在の福岡県にある志賀島(しかのしま)で発見さたものです。
このように貢ぎ物を送り、臣下の礼をとることを朝貢といいます。朝貢のメリットは中国のお墨付きをもらえることです。そうして公認されると日本国内で他の国に対して優位に立てます。
で、『後漢書』東夷伝によれば倭国王の帥升(すいしょう)が生口(=奴隷)160人を中国に献上します。
3、『魏志』倭人伝の時代
『魏志』倭人伝の時代、中国では後漢が滅亡して、魏・呉・蜀の三国時代になります。年代としては3世紀のことですね。そして日本の邪馬台国(やまたいこく)という国が魏とつながりを持ちます。邪馬台国は2世紀後半から続いていた争いを平定して大きな権力を持った国です。
-この争いを何というか?
答え:倭国大乱(わこくたいらん)
さて、邪馬台国の政治制度は宗教的な力による支配でした。こうした政治制度を鬼道(きどう)といいます。この鬼道の頂点に立っていたのが卑弥呼(ひみこ)です。
そして邪馬台国は中国の魏に使いを送ります。「日本を味方につけて損はない!」と考えた魏は、卑弥呼に親魏倭王(しんぎわおう)の称号を与えます。称号だけではなく銅鏡100枚もくれます。
最終的に、卑弥呼は狗奴国(くなこく)との戦争で死んでしまいます。
卑弥呼の死後、壱与の時代
卑弥呼の死後、最初、男性の王様が立ちますが、統治に失敗します。そこで、やはり宗教的力の強い女王がいいだろうということで壱与(いよ)という女王を立てた結果、国をうまく統治することができました。
そして壱与も中国に使いを送ります。このころの中国は晋(しん)の時代でした。266年に壱与が使いを派遣した先は晋の洛陽(らくよう)です。
以上で、弥生時代を終わります。