精神科医の名言で紐解く人類精神史

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人間は知性に助けられ同時に知性に苦しんでいる

人間はその本質において知性に苦しめられている。

精神科医、中井久夫は「人間は擬似目的論的存在である」と言った。

ここでいう疑似目的とは簡単に言えばゲームのようなものである。確かに、ゲームは「捕らわれたお姫様を救助する」とか「魔王を打倒する」といった目的を持つが、こうした目的は、明らかに疑似的なものである。

人は理由のない人生に耐えられない。人は理由のない苦しみについては驚くほど脆弱である。

知性は人を生態系の頂点に据えたが同時に生命は、その本質において、純粋に無意味だと、擬似目的論的だと教えた。この意味において、「知恵の味を食べるな」というアドバイスはそこそこ的を得ている。知らぬが仏というわけだ。

疑似目的性は第1の虚構だ

しかし、知ってしまったものは、元に戻せない。理解は不可逆である。こうした人間存在の擬似目的性からくる、苦悩に対処するには、蛇の道は蛇ということで、虚構(=疑似目的性)を新たな虚構で上塗りするという思想的方略が有効だった。

つまり「神」の発明である。こうして、二重の虚構性戦略たる宗教は、何千年もの間、驚くほど、人々の心の平安を担保してきたが、科学の発明はこれを許さなかった。

またしても、人は知性に苦しめられることになる。

科学は神を殺してしまったので、人はまた、擬似目的論的存在であること、その本質において、生に理由がないことに苦しみだした。

神様がだめならフロイトに頼ればいいじゃない

この状況に一石を投じたのは、精神科医、フロイトである。フロイトの創始した精神分析は、その鮮やかな理論で、うまく科学性を「偽装」しつつ、またもや、二重の欺瞞による癒しを回復した。

ところが、精神分析論は理論的に美しいだけで、実証性に欠けるので、最終的には、うまくいかなかった。精神科医、森田正馬は、フロイト=ユングの理論を「いたずらに神秘的である」と批判している。神秘的であるが故に、二重の虚構性戦略として機能していたのだけれども、精神分析は神秘的故にオカルトに堕してしまった。

科学は捨てられない、心の平安も捨てられない

すると、擬似目的論的人生観が、またもや露呈し、知性は人を苦しめることになる。人生は砂漠の石ころと同じくらい無機質で、生きること、子孫を残すことに、決定的な理由を見出せない。科学的に精緻に分析すればするほど、生きることは、単なる現象にすぎず、これといって積極的指向性を持たないことが、暴露されてしまう。

とはいえ、科学はあまりにもパワフルなので、これを手放す訳にはどうしてもいかない。最先端の医療やコンピュータなどはあまりにも便利すぎる。すると、虚構を虚構で塗りつぶす思想方略は、もはや人々に環境適応能力を与えるものではなくなってしまう。そうすることは、原理的に不可能になってしまった。

認知革命が解決の糸口を開いた

ここで、革命的な思想的対処方略を発明したのが、精神科医、アーロン・T・ベックである。ベックは現実的、合理的、実証的に思考する限りにおいて苦悩生じ得ないと考えた。

事実、ベックの発明した認知療法(あるいは認知行動療法[Cognitive behavioral therapy:CBT])は、精神疾患の治療において、抗うつ薬と同等かそれ以上の効果があることが、大規模な統計的研究から明らかになっている。

知性が人を苦しめるのではない。非合理的で事実に反する妄想的考えが、人を苦しめるのだ。とベックは主張する。つまり知性は諸刃の刃ではなく、正しく用いるならば、それは福音なのである。人は論理と実証だけで充分に幸福に生きていけるのだ。

かくして、ようやく、20世紀中盤に至って、知恵の実の功罪は解決に至り、人は心の平和と科学の利便性を両立するに至った。

 

かに見えた……。

 

しかし、改めて、問おう。

「生きる理由は何か」

「なぜ連綿と子孫を残し続けるのか」

「生命には擬似目的論的ではない、本来的な目的があるのか」

これらの問いに答えられないならば、生きる上での苦悩を本質的に完全解消させることは困難である。

もちろんある人は伝統的思想方略たる宗教、つまり神の概念で、この根本問題に立ち向かえばいいと言うだろう。

また、ある人は、ただ今は未解決なだけで、いずれ、早晚、科学こそが、この問題を解決する日が来ると言うだろう。

また、ある人は、「人はどこから来て、どこへ行くのか」という疑問の、原理的解決不可能性を証明してみせ、若き日のウィトゲンシュタインのように、「語り得ぬことについては沈黙を守るべきだ」と言うだろう。

いずれにせよ、人間はその本質において、知性に苦しめられている。

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