【超わかる!】森田療法完全マニュアル-対人恐怖症・パニック発作・うつ病への森田理論的アプローチ【第1回】


はじめに

この記事はゼロから森田療法の理論を理解できるようになって頂くことを目的としています。筆者自身が森田療法によって救われた体験談等を織り交ぜながら、森田療法の理論と実際について解説します。記事の最後でオススメの森田療法の本も紹介しています。

また認知行動療法との比較検討も織り交ぜていきます。

対象読者は非常に広く、健康な方でもっと人生を豊かに生きるヒントが知りたい方はもちろん、なんらかの精神的不安や恐怖に苛まれている方にとっても参考になるはずです。

 

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森田療法の症例研究から読み解く

各種恐怖症(対人恐怖が代表的)、パニック発作(心悸亢進)を患った患者はどのようなプロセスで回復していったのでしょうか。先ずは筆者個人の症例を紹介します。森田療法を理解するには、事例を読むのが一番の早道です。

筆者が森田療法で完治した体験談

症状:喉につかえるような感覚があり、人としゃべってるときなど、不安感が強いときには、喉のつかえ感を引き金に吐きそうになってしまう。あるいは実際に嘔吐してしまう。

いつからその症状が始まったのか?:17歳のとき通っていた高校の教室で突然はじまった。

その症状でどんな風に困ったのか?:吐き気がひどくて歯医者の治療をまともに受けられない。それだけではなく、家で家族と話していても、ファミレスで友人と話していても突然、吐き気が強くなり、唐突にえずいてしまう。または嘔吐してしまう。そのため、嘔吐発作がでないように常に飴を持ち歩き、糖分で喉の違和感をごまかしていた。

その症状はいつまで続いたのか?:17歳~23歳まで約6年間苦しんだ。

上述のように6年間、喉の違和感とそれによる不安自の嘔吐発作に悩まされ続けていました。耳鼻科にいってもなんの異常もないと言われるばかりでした。しかし森田療法の本に出会い、きっと治療の道は森田理論にある!と確信。

あるページに「パニック発作が怖くても、恐怖感を我慢して、ドシドシ電車に乗りなさい。そして人前で発作が出ても形を崩さず耐えなさい。そうして恐怖突入していくことで、だんだんと良くなっていく」というアドバイスがあった。自分はパニック発作ではないが「もし人前で吐いてしまったらどうしよう」という恐怖感が常にあり、そのためいつものど飴とかミンティアでごまかしていた。

そこで、上述のアドバイスを自分の嘔吐発作に置き換えて、「今後は一切、飴で喉の不快感をごまかさない。そして、嘔吐発作が出そうになっても、発作を我慢せず、人前でガンガン発作を出してやる!」と決意しました。

そうして人前でもなんでも構わず嘔吐発作を出しまくった結果、2カ月も経たないうちに、完治したのです。

完治した後、思ったことは、「人前で嘔吐発作が出ることの何が怖いんだ?喉のつかえ感なんてあってもなくてもどちらでもよい」と腹の底から思えるようになりました。

そうして喉に対する執着がはがれていくと、不思議と喉の違和感自体も全く感じなくなりました。

このような経緯で6年間、悩みに悩まされた、喉の違和感と嘔吐発作への恐怖感がたった2カ月で全て消え去ったのです。

対人恐怖症の方の事例

軽作業を行いながら、不安を感じても、不安ながらやる姿勢を学ぶ。気分は気分。仕事は仕事。作業が嫌になることも多かったが「仕事は興味のためにやるものではない」という教えを守って嫌々ながら続ける日々。対人恐怖症から自宅にこもりがちになっていたが、こうして気分中心の考え方を作業を通じて改めていくことで、次第に活力を得る。

その後、対人恐怖症は完治しまるで生まれ変わったかのように多くの人に囲まれ、職場でバリバリと働いている。

【解説】

この対人恐怖症の事例もそうだが、神経症に陥った人は、必ずと言っていいほど気分中心の考え方になります。常に気分の測定器のように内心を気にしているわけです。

軽作業をしていて不安になったり、嫌になったりしても、「気分は気分、仕事は仕事」という教えを守り、不安なときは不安ながら仕方なく作業し、嫌なときは嫌々ながら、仕方なく作業の中に入っていく姿勢を実践を通じて体得していくのです。

その結果、気分中心の考え方から脱していくのです。

すると他人が怖くても、恐怖感はそのままにして、他者と良い関係を築きたいという進歩への欲求に素直に従って、ビクビクしながらでも、他人に積極的にはなしかけたりしていくことで、対人恐怖の念はなくならなくても、そういった恐怖感が「あってもなくてもどちらでもよい」という心境に達するわけです。

森田療法ではこのように気分に対する執着が取れていくことを視界の中の鼻に例えます。我々の視界には絶えず自分の鼻が見えているわけですが、視界の妨げになる、邪魔だとは一切考えないですよね?

これは視界に絶えず存在する「鼻」について、なんの執着もないからです。

同様に不安・恐怖への執着がなくなっていくと、視界の鼻と同じように、「不安感や恐怖感があろうがなかろがどちらでもよい」という心境に至るわけです。

ここで注意して欲しいのは、けっして他人が怖いといった感情がなくなるわけではないということです。程度の差こそあれ、誰でも見知らぬ人に声をかけるのは怖いものです。しかし「気分は気分。やるべきことは、やるべきこと」というように、気分への執着が無ければ、怖くてもビクビクハラハラしながら、その恐怖感を取り除こうなどとは一切考えずに、必要があれば見知らぬ人に話しかけるわけです。

つまり神経症は気分や特定の恐怖を感じる場面への執着が固定してしまって、容易にははがせないような場合に、発生するわけです。

 

どうでしょうか?

 

たった2例ではありますが、神経症が治っていく感じがなんとなく掴めたのではないでしょうか。

それでは以降からは森田理論の詳細を解説していきます。

神経症が発生するプロセス

日常的に当たり前に起こる出来事を何か特殊なことのように思い込むことから神経症は発症します。

わかりやすくするために赤面恐怖と書痙(しょけい)を例にとってみましょう。

【用語解説】書痙とは

特に人前で字を書くときに、緊張して手が震えてしまうといった体験をした際に、恥ずかしいのでなんとか手の震えをなくしてしまおうと思い詰めることで、人前で文字を書くことが困難になる症状。

これと似たものに茶痙(ちゃけい)というものがある。

茶痙とは来客にお茶を出す際に緊張して手が震えてしまうことにこだわり、そうした状況を避けるようになることである。

書痙にせよ茶痙にせよ、実際は緊張から手が震えてしまうことなど、程度の差はあれ、誰にでも起きることである。別に手が震えて、気恥ずかしい想いをしても、そのことに対して執着しなければ、気恥ずかしい気分はそのままに、震える手もそのままに、ビクビクしながら文字を書いたり、お茶を出せばいいのである。

このように日常のちょっとした不快気分を問題視し、なんとか取り除こうとするから神経症に発展するのである。

普通、誰だって、程度の差こそあれ、プレゼンやレポートの発表等で、緊張して赤面してしまうことはあります。健康な人は、例え赤面しても、そのことに、いたずらにこだわらずに、緊張しながらも、そのとき、その場でなすべきことを実行します。

しかし神経症の人は、緊張感や恐怖感、それらから当然に生じる赤面や書痙といった症状をなんとか取り除いてからプレゼンなり、レポートの発表をしようと考えます。

しかし大勢の聴衆がいる中で、前に出て発表したり、重要な来客があって、お茶を出す手が震えるというのは、自然なことなのです。にもかかわらず、この人間の自然な気持ちをなんとか無くそうとすることは、不可能を可能にしようとする努力に他なりません。

水が高いところから低いところへ流れるのと同様に、緊張・手の震え・赤面といった生理的現象は避けては通れない当然の人情なわけです。褒められれば嬉しいし、怒られれば嫌な気持ちになるのと全く同じことです。

このように日常生活で当たり前に生じる気分や生理的反応をいたずらに否定し、なんとか取り除こうとする態度でいると、そこから赤面恐怖や書痙といった執着が生まれ、そうした執着が固定化されていくことで、神経症が発生するというわけです。

わかりやすく言えば、例えばバンジージャンプをしようとするときに、怖いけれども、ビクビクしながら、なんとかやってみようというのが正常で健康的な態度です。逆に、恐怖感をなんとか取り除いて、怖くなくなったらジャンプしようと考える態度は神経症への道です。

森田療法における「あるがまま」とは

あるがままの態度はけっして「ありのままでいいんだよ」という考え方ではありません。そうではなく、「不安や不快気分はそのままに、そうした気分をなんとかやりくりして取り除こうとはせずに、持ち耐えて、なすべきことはなす」という態度です。

勉強を例にとって説明しましょう。特に嫌いな教科の勉強をするときは「やりたくないなあ」・「嫌だなあ」と感じるのが普通です。一方で、「テストで良い点をとりたい!」・「資格試験に合格したい」という向上発展の欲望もあります。

そうした不快気分はあるがままに任せて、嫌々ながらやりたくないことの中へ入っていき、ドシドシ勉強することがあるがままの姿勢ですね。このとき2つのことをあるがままにしています。

すなわち、不快気分はあるがままに素直に受け入れ、同時に進歩したいという欲望もあるがままにしていますね。

「ここで勉強は苦しいからやらない!」と逃げてしまっては、成長したいという欲求を疎かにしてしまいます。

また一方で、「なんとか楽しく勉強する方法はないか?」と考えだすと、今度は、苦手教科の勉強は苦しくて当然なのにもかかわらず、苦しい気持ちをなんとか取り除こうとしているわけですから、当然に感じる自然な気分を、あるがままにできていませんよね。

要するにあるがままの態度とは、気分も、進歩したい欲求も両方ともあるがままにするということなのです。

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