「死」とは何か?


「死とは何か?」

 

生きている限り考えられずにはいられない。

 

今日は「なんとなくブログに書くことがないなぁ」と思っていたら、なぜか突然、「死」について考えてみようと思った。

 

「死」とはいったい何なんだろうか。

 

うちの母親は「人間は死んだらただの生ごみ」と言い切った。なるほど、きつい物言いではあるが、確かにそうかもしれないと思わされた。

実際、人間に限定しなければ、私たちが毎週のように出しているゴミの中には、かつて生きていたであろう動物が溢れている。

 

ところで、私が特に「死」について興味をもっていることは、「死は体験可能か」ということだ。

死ぬ1秒前ならもちろん体験できるだろうが、「死そのもの」は、もう死んでいるのだから体験できないのではないか。

もし死を体験することができないとしたら、それは非常に残念極まりないことである。

死はネガティブに捉えられがちだし、実際、けっして明るい話題ではないが、一度きりの人生を締めくくる最後にして最強に謎めいた「死」という現象を体験できないとしたら、これは大損だ。

ところで、我々の心の中には、家族や友人、会社の同僚といった、様々な人々の「像」が佇んでいる。死ぬということは、そういった、ワタシのココロの中にある、家族像や友人像もまた消えてなくなってしまうことだ。

そんなことは、まぁ当たり前なのだが、よくよく考えてみると、人間は1人では生きられない。必ず、誰か他人を鏡のように利用して自分自身を認識している。

その意味では、死によって、生前関わってきた人々の「像」が消失することは、まだ生きている人の自己認識にも影響を与える気がする。だって、鏡像が1つなくなるのだから。

 

もっと身近な死の話題についても考えてみよう。死を考えることは「なぜ生きるか」を考えることに直結する。実際、どんなに素晴らしい人生を送った人でも、生まれるときは裸で、死ぬときも裸だ。歴史に名を残したところで、故人が喜ぶわけではない。死んでいるのだから喜びようがない。

では、翻って

 

「どうせいづれ早晩、死んで土にかえるだけなのに、私達はなぜにこうも必死に生きようともがいているのだろうか?」

 

どんな人生も終わってしまえば、それまでなのに。

 

実際、私は死にたくない。全身全霊を込めて、あらゆる知恵を絞って、「死を回避したい」という衝動に突き動かされている。いづれ死ぬことは避けられないにしても、1秒でも長く生きながらえたいと切実に思う。死は恐怖の王様みたいなものだ。

ここでやはり不思議でならないのは、いかに長く、素晴らしく、完璧に人生を過ごしても、死が訪れた瞬間、「単なる生ごみになってしまうにもかかわらず」、生きたくて、生きたくて仕方がないことだ。

先ほど、他人の中に自分の像を写して自己認識しているという話をしたが、もしかしたらこのことはヒントになるかもしれない。なぜなら、自分が死んでも、まだ生きている人の心の中には、「仮の自分」が映っているのだ。

そういう意味では生きる意味というのは、他者の中に移りこんだ自分と何か関係があるかもしれない。

 

という愚行なのでした。

 

健康は宝物ですね。

あわせて読みたい